誘導都市  (1990-)


































記述―1

エクス・ブレイン/
コンピュータの使い方の、三段階


その一 、手の延長として:エクス・ハンド

手で図面を描く代わりに、コンピュータを使うこと。
言うまでもなく、CADやCGのこと。
しかし、コンピュータでなければできないデザインなどというものは、いまのところ存在しない。疑う向きには、鉛筆一本で、何だって設計してご覧に入れましょう。依頼して頂ければ。
その理由は、実際の「建設」は結局、まだ手仕事だということにある。
手でつくれるものは、手でデザインできる。極端に言えば、実物大模型でスタディすればいい。
だから、いかにもコンピュータでデザインしました、というような形態は、コンピュータのグラフィック能力の限界を示しているにすぎない。
このことが理解されないうちは、市販のCGソフトがバージョンアップするたびに、添付マニュアルのような定型デザインが続出することでしょう。

その二、さいころの延長として:エクス・ダイス

遺伝的アルゴリズムや人工生命を使えば新しいものができる、というわけではない。
そういう仕掛けは別段、「良い結果」を保証してくれるわけではないのだ。
一方、自然界では同じような原理に基づいて優れた?生物が進化してくるが、それは環境条件が淘汰圧をかけるからである。生物は、置かれた条件への、より効果的な解答を求めて自動的に進化する。そこには「目的」と「方法」がある。

単に遺伝的アルゴリズムやフラクタルソフトを使って形態を操作しても、膨大な変異が生み出されるだけだ。原理を用いたからと言って、意味ある結果が出てくるわけではない。例えば、シェークスピアを一定の原理で楽譜に置き換えても、名曲ができる可能性はほとんどない。大きなゴミの山は手に入るが。

要するに、変わったカタチや配列を無限に生み出す道具としてコンピュータを使うのは、さいころを振ってプランを決めていく、のと大差ないのだ。さいころもコンピュータも、結果はいくらでも出してくれるが、なんの保証もしてくれない。
神はさいころ遊びはしない、と言ったのは、アインシュタインだった。(量子力学の神は、ちょっと別らしいのですが。)

その三、脳の拡張として:エクス・ブレイン

コンピュータを使って、「思考」すること。
頭の中で行っていることを外に出して、誰にも分かるようにすること。
つまり思考の「外部」化、すなわち「検証」可能化、そしてそれは設計の「科学」化を導く。ちなみに、大学の建築学科は芸術学部と工学部にある。これからは、理学部にも置かれていい。

設計の、「ソルーション解答」としての側面には、ヒトの脳よりコンピュータの方が向いている。
一方、コンピュータは夢を見ない。P.K.ディックの言ったように、アンドロイドは電機羊の夢を見ない。ヒトはこの分野にこそ力を発揮する。それは設計の「イマジネーション想像」の面だ。

「誘導都市」シリーズは、前者、つまり「解答」のコンピュータプログラム化の実証を目指している。
「良い」都市、という「解答」を「自律的」に生み出すこと。

従って「誘導都市」はCGではないし、インテリジェントCADでもなく、もちろん、さいころの代りでもない。「誘導都市」は設計上の「思考」システムを取り出したものなのだ。それも、論ではなく、自生的なシステムとして。

ところで、思考って何?。
ここでは、思考とは、目的の追求プロセスのことだと定義している。
かなえるべき目的、すなわち価値を定義し、その実現を図ること。
生物には明快な目的、価値設定がある。生物すべて、自分のDNAを持つ子々孫々を増やすために行動するとは、ドーキンスの指摘により広く知られた説である。(果たして、たまごっちに人生の目的はあるのでしょうか?)
AIもカオス理論も、そうした目的なしではルーレット盤と変わりない。
「価値」の設定が「目的」を生み、目的が「方法」を選ばせ、選んだ方法の効果の「評価」が新たな方法を導く。この一連の自律的な進行過程を、普通、「進化」と呼ぶ。
そのプロセスを外部化できるのが、コンピュータ「プログラム」だ。「自動発生」と「自己評価」の仕組みを内在したプログラム。

コンピュータは、現代に登場したアラジンのランプのようなものだ。ランプの精は、命じられたことは忠実に実行するが、善し悪しはいっさい考えない。
彼の行いの意義を左右するのは、何を命ずるか、なのである。


 

記述―2

「誘導都市」プロジェクトは、新しい形態をコンピュータを使って見つけよう、というものではない。

そして、行き詰まったデザインを、機械の手を借りてなんとかしようという、ふがいのない?試みとも関係がない。

もちろん、手間を省くための自動設計とは、無縁である。

そもそも、コンピュータを使ってできるデザインなど、鉛筆でもできるのだ。手でつくれないデザインなど、存在しない、と言ってもいい。なせかというに、しょせん、「設計」とは、建築物という、「物理的実体」をつくるための手段に過ぎないからである。
建築は、「もの」、である。コンクリートやアルミやガラスやプラスチックで構成された、物理的実体。手で触れるもの。地震が来れば、瓦礫と化すもの。重くて、硬くて、大きくて、融通の効かない、がんこな「もの」。逆もまた真なり。手で触れるものは、手でつくれるものなのである。

当然ながら、この一点をキャンセルしてしまえば、話は別だ。物理的実体を放棄し、情報としてのみ存在する建築ならば、制約はない。手で触れねことのできない建築は、手の制約から開放される。コンピュータでしかつくれない建築は、広大なネットの海に登場するであろう。

誘導都市では、あくまで、物理的に都市と建築を「つくる」ための方法を探ることを目的とする。

「誘導都市プロジェクト」
"The INDUCTION CITIES"
デザインしないでデザインする方法

  聡明なサイコロ

設計とは、ものごとに重みづけをし、その配列を決め、結局はかたちをつくることである。

その過程で、無数の判断が必要である。aがいいかbにするか、右か左か、その決定は、ヒトが行う。
ヒトが決める代わりに、サイコロを振って決めてもいい。そうなれば設計者はいらない。もちろん、建築家もいらない。
一般には、サイコロよりヒトのほうが、ましな決定をする、という期待によって、設計者は存在を許されている。

さて、では、そのサイコロを、少し賢くしたらどうなるか、というのが、「誘導都市」プロジェクトである(ということもできる)。

右か左かを決めなくてはいけない場合、そこには満たすべき条件がある。明るいほうがいい、とか、広いほうがいい、という条件。
条件があるのなら、それをよりよく満たす方を選べばいいはずだが、それがそうはいかない。
そうはいかない主な理由は、条件同士が絡み合っているからである。
あちらたてればこちらたたず、とても全部は満足できない。無限にあるように思える全ての選択肢を検討することなど、できはしない。そもそも、選択肢を列挙することすら、人間業を越えている。

結局、しばし悩んだ後、えいやと決定をくだすことになる。その、えいや、がどの程度、要求条件をかなえているのかは、誰にも分からない。誰にも分からないから、誰からも文句が出ない。

ところで、人間ではできないことを行うのが、キカイである。
絡み合ったたくさんのものから指示した条件に会うものを見つけてくる、というようなことは、コンピュータの得意とするところである。
その前提となる、「条件の記述」は、容易ではない。しかし、全ての条件を列記する、ことをあきらめれば、事態は楽になる。

条件の選択は、今後のスタディに回すことにする。ここでは、何が、「よい」かを決めたあと、その良いものをいかにして生み出すか、というところに主眼を置く。

条件決めるためには価値基準を定める必要があり、それには感覚の数値化といった未解決の問題があるからだ。
そもそも、誰にとって「いい」街とするのか、それが問題だ。投票できめるのか、独裁で決定するのか。それは政治の仕事である。
もちろん、「誘導都市」のような方法が一般化すれば、それが決定プロセスをより透明なものにする可能性はある。

  部分のコード、全体の自由

コンピュータを動かすには、プログラムがいる。プログラムとは、規則のつながりである。

ここで、例えば、斜線制限のように一律に全体を規定する強力な規則を設定すると、システムが硬直して、適用した結果から多様性が失われやすい。
「誘導都市」のプログラムの多くは、要素相互の関係という部分のコードだけを設定し、それ以外は要素群のダイナミズムに任せる、という方法をとっている。

  プラグアンドプレイ

「誘導都市」はプラグアンドプレイシステムをとっている。
いくつかの要素技術をパラレルに開発しながら、適宜それらのいくつかを組み合わせて試行する、という仕組みである。各要素デバイスをカセットのように差し込めば、そのまま使える。

これまでに開発したいくつかのデバイスを使いて、実際の敷地で街をひとつ、つくってみることにした。プレイの実行。

そこで、臨海副都心の、まだ新規開発が行われていない島を対象にした。
この項で示すのは、そのひとつの例である。
趣旨から当然のことだが、誘導都市が描き出す結果は、試行のたびごとに違った姿をしている。
結果としてのかたちや空間や構成、すなわち、「デザイン」を、指示するものではない、からである。

答えは、試行の数だけある。
ということは、答えは無数にある、ということだ。

しかし、どの答えも、目的をクリアしている。
誘導都市では、デザインする、とは、要求仕様書をつくり、その優先順位を決めることなのだ。

今回の例では、都市の発生に次のようなプロセスをとっている。
まず、「発生街区の都市」で街区を生成する。
そこに、「太陽神の都市−2」で建築を発生させる。
そして「風神の都市」で快適な風の吹く場所を選び、そこを公園とする。同時に、風の道、も設定する。 
その上で、「オンデマンド・シティ 」を作動させ、施設機能を割り当てる。 
「坂道の都市」は、「発生街区の都市」の次の過程で、街区に快適な起伏を発生させるはずのものだが、工程上間に合わなかったので、今回の例では組み込んでいない。             

  デザインなきデザイン

複雑系、人工知能、カオス理論、人工生命、エージェント、インテリジェントCAD、自己組織性。それらのきらびやかなキーワードは、それぞれ異なった背景を持ち、違ったフィールドにありながら、少しづつ、あるいは大きく重なり合って、波のように動いている。

「誘導都市」の目指す方向は、いずれ「設計」や「計画」と称される行為すべてに渡っての、当然の手続きとなるだろう。
世界は、ヒトの意志と感のみで律するには、少し複雑すぎるのだ。

7年前、このプロジェクトを開始した時点では、こうした試みはほかに見当たらなかった。
現在、同様な動きは徐々に増え始めているように見受けられる。
その成果はいまだ定かではない。しかし、早急な成果を求めたり、実効性を即断したりすべきではないだろう。
必要なのは、可能性を育む姿勢である。まったく新しい世界は、まだ、生まれたばかりなのだから。そして、その子どもの未来は、広大なのだから。
もっとも、その先にあるものが、福音であるという保証は、どこにもないこともまた、事実である。

 


論文 1995年 日本建築学会大会学術講演(梗概集5266/連名)
「設計与条の充足と配列の自由度の両立を、コンピュータプログラムで可能にする研究」
−集合住宅の日照条件を例として

1996 日本建築学会大会学術講演(梗概集5239/連名)
「より良好な街区を生成する方法を、コンピュータプログラムで可能にする研究」
−「アクセス性」と「おもしろさ」に注目して

1997 日本建築学会大会学術講演(梗概集5283)
「機能・設配置における最適化を、コンピュータプログラムで可能にする研究」
−要素間の「最適距離」に注目して

1997 日本建築学会大会学術講演(梗概集5284/連名)
「設計与条の充足と配列の自由度の両立を、コンピュータプログラムで可能にする研究」
−集合住宅の日照条件を例として2

2000

日本建築学会大会学術講演(梗概集11036/連名)
「自動空間生成プログラムの実施」

−コンピュータプログラム・ジェネレイテッド・デザイン−

etc.


* 誘導都市プロジェクトは、90年に開始された。当初は図上シミュレーションを用いていたが、その後コンピュータプログラムを使うものに移行し、94〜95年の第一期はベーシック、95〜97年の第二期はC言語、98年〜実施期はC言語及びマセマティカ等によるオリジナルプログラムを作成している。(ビジュアル表示にはパッケージプログラムも使用)